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これから「健康」の話をしようか

理学療法士。健康、医療、読書のことについて書いていきます。

幸福とはなにか。

 

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幸福とは「主観的厚生」である。

幸福とは、たった今感じている快感であれ、自分の人生のあり方に対する長期にわたる満足感であれ、心の中で感じるものを意味する。

 

ある研究では、年収の少ないグループの主観的厚生の平均的水準値が7.3にすぎなかったのに対して、年収の多いグループの平均値が8.7であった。

結果として、富は幸福をもたらす。

だがそれは、一定の水準までで、そこを超えると富はほとんど意味を持たなくなる。

 

病気は短期的には幸福度を下落させるが、長期的な苦悩の種となるのは、それが悪化の一途をたどったり、継続的で心身ともに消耗させるような痛みを伴ったりする場合に限られる。

 

糖尿病のような慢性疾患の診断を下された人々は通常、しばらく落ち込みはするものの、病状が悪化しなければ、この新たな状況に適応して、健康な人々と変わらないほど高い評価を自分の幸福度につける。

 

家族やコミュニティは、富や健康よりも幸福に大きな影響を及ぼす。

緊密で協力的なコミュニティに暮らし、強い絆で結ばれた家族を持つ人々は、家庭が崩壊し、コミュニティの一員にもなれない(もしくは、なろうとしたことのない)人々よりも、はるかに幸せである。

 

結婚生活は重要である。

良好な結婚生活と高い主観的厚生、そして劣悪な結婚生活と不幸の間に、きわめて密接は相関関係があることは、研究によって繰り返し示されている。

 

この相関は、経済状況ばかりか健康状態とさえ関係がない。

貧しい上に病にふせっていても、愛情深い配偶者や献身的な家族、温かいコミュニティに恵まれた人は、その貧しさの程度があまりにひどかったり、病が悪化する一方だったり、痛みが強かったりするのでなければ、孤独な億万長者より幸せだろう。

 

だが、何にもまして重要な発見は、幸福は客観的な条件、すなわち富や健康、さらにはコミュニティにさえも、それほど左右されないということである。

幸福はむしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる。

 

状況が改善すると期待も膨らむので、結果として客観的条件が劇的に改善してもなお、満足が得られないこともある。

状況が悪化すると期待もしぼむので、結果として大病を患ってもなお、それまでとほとんど変わらず幸せでいる場合もある。

 

現代人は、鎮静剤や鎮痛剤を必要に応じて自由に使えるものの、苦痛の軽減や快楽に対する期待があまりに膨らみ、不便さや不快感に対する堪え性がはなはだ弱まったために、おそらくいつの時代の祖先よりも強い苦痛を感じている。

 

すべては「期待」の問題である。

 

不老不死でさえ不満につながるかもしれない。

科学があらゆる疾病の治療法や効果的なアンチエイジング療法、再生医療を編み出し、人々がいつまでも若くいられるとしたらどうするか?

おそらく即座に、かつてないほどの怒りと不安が、蔓延する。

新たな奇跡の治療法を受ける余裕のない人々、つまり人類の大部分は、怒りに我を忘れる。

歴史上つねに、貧しい人や迫害された人は、少なくとも死だけは平等だ。

金持ちも権力者もみな死ぬのだと考えて、自らを慰めてきた。

貧しい者は、自分は死を免れないのに、金持ちは永遠に若くて、美しいままでいられるという考えにはとうてい納得できない。

だが、新たな医療を受ける余裕のあるごくわずかな人々も、幸せに酔いしれてはいられない。

新しい治療法は、生命と若さを保つことを可能にするとはいえ、死体を生き返らせることはできない。

愛する者たちと自分は永遠に生きられるけど、事故やテロ、災害など、非死でいる可能性のある人たちはおそらく、ごくわずかな危険を冒すことさえも避けるようになり、配偶者や子供や親しい友人を失う苦悩は、耐え難いものになる。

 

また、主観的構成を生化学的要因や遺伝的要因と結びつけると、私たちの精神的・感情的世界は、何百万年もの進化の過程で形成された生化学的な仕組みによって支配されている。

他のあらゆる精神状態を同じく、主観的構成も給与も社会的関係、あるいは政治的権利のような外部要因によって決まるのではない。

そうではなく、神経やニューロンシナプス、さらにはセロトニンドーパミンオキシトシンのようなさまざまな生化学物質から成る複雑なシステムによって決定される。

 

人間を幸せにするのは、ある一つの要因、しかもたった一つの要因だけであり、それは体内に生じる「快感」だ。

嬉しいことが起きた時、その対象に反応しているのではなく、血流に乗って全身を駆け巡っているさまざまなホルモンや、脳内のありこちで激しくやりとりされている電気信号に反応している。

 

人間の体内の生化学システムは、幸福の水準を比較的安定した状態に保つようにプログラムされている。

幸福そのものが選ばれるような自然選択は決してない。

幸福と不幸は進化の過程において、生存と繁殖を促すか、妨げるかという程度の役割しか担っていない。

進化によって私たちが極端に不幸にも、極端に幸福にもならないように形成されていても不思議ではない。

私たちはあふれんばかりの快感を一時的に味わえるものの、そうした快感は永続しない。

それは早かれ遅かれ薄まっていき、不快感に取って代わられる。

 

快感は生存システムと隣り合わせに備わっている。

空調システムの設定温度の快感は個人により異なるように、人間の幸福度調節システムの設定も、一人ひとり異なる。

陽気な生化学システムを生まれ持つ人もいれば、陰鬱な生化学システムを生まれ持つ人もいる。

何か楽しいこと、達成したこと、嬉しかったことがあっても、私たちの生化学的特性は変わらない。

ほんの束の間、生化学状態を変動させることはできるが、体内のシステムはすぐに元の設定点に戻ってしまう。

 

結婚したから幸せではなく、幸せだから結婚できたかもしれない。

必ずしも結婚が幸福をもたらすことを意味しない。

より正確に言えば、セロトニンドーパミンオキシトシンが婚姻関係を生み出し、維持する。

陽気な生化学的特性を持って生まれた人は、配偶者として魅力的であり、結婚できる可能性は高い。

逆に陰鬱な生化学的特性を持つものは、たとえ結婚したとしても、今より幸せになれるとは限らない。

 

幸福は主に生化学によって決定され、心理学的要因や社会学的な要因にもそれぞれの役割がある。

私たちの心の空調システムは、あらかじめ設定された範囲内で自由に推移できる。

セロトニンは外的刺激により分泌されるが、分泌されたセロトニンが達する濃度は変えられないため、幸福度を設定範囲内以上に増大させえない。

 

この生化学に基づく主張を何よりもうまく捉えているのが、「幸せは身の内より欲する」である。

お金や社会的地位、美容整形、壮麗な邸宅、権力の座などはどれも、あなたを幸せにすることはできない。

永続する幸福感は、セロトニンドーパミンオキシトシンからのみ生じる。

快感の強度や持続時間が生化学によって制限されていることを思えば、人々が長期にわたって高い水準の幸福を経験するためには、生化学システムをそうさする以外に方法はない。

 

だが、この幸せの定義に批判もある。

カーネマンの研究から、子育ては相当に不快な仕事であると判明した。

しかし、大多数の親は子供こそ自分の幸福の一番の源泉であると断言する。

ここに矛盾が生じる。

これは、幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではないのを立証していると考えられる。

幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっている。

幸福には、重要な認知的、倫理的側面がある。

ニーチェの言葉にもあるように、あなたに生きる理由があるのならば、どのような生き方にもたいてい耐えられる。

有意義な人生は、困難のただ中にあってさえもきわめて満足のいくものであるのに対して、無意味な人生は、どれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練にほかならない。

 

幸福とは、人生という今を有意義に送れているかどうかなのかもしれない。

しかし、人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものも単なる妄想にすぎない。

幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。

個人のナラティブが周囲の人々のナラティブに沿うものである限り、個人は自分の人生には意義があると確信し、その確信に幸せを見いだすことができるということになる。

 

幸福が快感を覚えることに基づくのなら、より幸せになるためには、生化学システムを再構築する必要がある。

幸福が人生には意義があると感じることに基づくのならば、より幸せになるためには、私たちはより効果的に自分自身を欺く必要がある。

この二つの共通の前提は、幸福とはある種の主観的感情だあり、ある人の幸福度を判断するためには、どう感じているのかを尋ねるだけで足りるということである。

 

仏教はおそらく、人間の奉じる他のどんな信条と比べても、幸福の問題を重要視していると考えられる。

二五〇〇年にわたって、仏教は幸福の本質と根源について、体系的に研究してきた。

科学界で仏教哲学とその瞑想の実践の双方に関心が高まっている理由もそこにある。

 

仏教によれば、たいていの人は快い感情を幸福とし、不快な感情を苦痛と考えるという。

その結果、自分の感情に重要性を認め、ますます多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになる。

感情は、海の波のように刻一刻と変化する、束の間の心の揺らぎにすぎない。

快い感情を経験したければ、たえずそれを追い求めるとともに、不快な感情を追い払わなければならない。

だが、仮にそれに成功したとしても、ただちに一からやり直さなければならず、自分の苦労に対する永続的な報いはけっして得られない。

苦しみの真の根源は、束の間の感情をこのように果てしなく、空しく求め続けることである。

感情の追求をしても、決して心を満たされることはない。

感情は絶え間なく湧き起こっては消えていくものだと理解する。

特定の感情を渇愛する渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け入れられるようになる。

真の幸福とは内なる感情とも無関係であるというものだ。

外部の成果の追求をやめ、内なる感情の追求もやめることである。

 

主観的厚生を計測する質問票では、私たちの幸福は主観的感情と同一視され、幸せの追求は特定の感情状態の追求と見なされる。

対照的に、仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのか、あるいは何であるのかを理解することだとされる。

 

幸福の本質は、自分の真の姿を見抜けるかどうかである。

 

 

 

引用